想像力と閉空間

生きていくにあたって、想像力を失ってしまうことを心から恐れている。恐い。恐すぎる。

想像力を失ってしまったら、目の前にいる人の気持ちにさえ気付けなくなってしまう。想像力を失ってしまったら、ぼくが生業としたいものづくりを続けられなくなってしまう。想像力を失ってしまったら、あとは死を待つためだけに日々を浪費する存在になってしまう。そんなふうに思うからだ。恐すぎる。

では、避けるべき状況に陥ってしまわないように、想像力の欠如を招いてしまわないように、どのように振る舞っていけばよいだろうか。

ぼくは、閉空間に身を置けば置くほど、想像力が失われていくと考える。生まれたときから、真っ白い壁に囲まれた、窓のない部屋の中で、本も読まずにテレビも見ずに誰とも接することなく過ごしてきた人、なんてのを思い浮かべてみよう。彼が彼女が、どうやって外の世界を想像できたものだろうか。

ポプラ並木

余談だけれど、窓の外に世界が大きく広がっていた研究室のあの席、尊いものだったなぁ、と。

閉空間、閉じたコミュニティ、断絶された世界。たとえば、さっき思い浮かべてもらったような部屋もそうだし、外界と交流のない村、誰かに意図的に情報を制限された施設、学校の教室、などなど。ぼくがこれまで見てきた中で、閉じているなぁと感じた場は、いくつかある。

閉空間には、独自の価値観が生まれる。独自の価値観が生まれること自体はぜんぜん悪いことじゃないと思うんだけど、その価値観「だけしか」見えなくなるのが、本当に恐いと思う。その価値観にそぐわないモノを、無意識に排除してしまうようになるからだ。

本能的に、と勢いよく書き出してしまうくらいに、閉空間を恐れている。きっと、閉空間は想像力の欠如につながると認識してしまっているのだろう。

ウェブは、本当はやさしい。1クリック先には、別の価値観が待っていてくれたりする。物理空間では、いくつかの駅を過ぎたり、いくつかの山や川をこえなきゃいけないかもしれない距離を、たったの数クリックで、ジャンプさせてくれる。まったくもってハイパーな仕組みだ。世界には多様な価値観があると、繰り返し教えてくれる。ワールド・ワイド・ウェブ。世界の果てまで届く、ぼくらの感性の根だ。

ぼくにとっては「ただの日常」でしかない日本の食卓の写真が、地球の裏側で日本のことを知ろうとしている若者にとって、ちょっとした教材になっていた。彼にとっての特別な場所に、ぼくは立っている。ぼくが日本という閉空間にいるだけでは、ぼくは「平凡」でしかなかった。その空間の外から見たとき、ぼくは初めて「特別」になったのだ。

発想の転換

ここまで書き進めてきて、気付いたことがある。ぼくが着目したいキーワードは、やっぱり「想像力」と「閉空間」で間違いないのだけれど、特に「閉空間」に対する捉え方が変わってきた。

閉空間は、大事なのではないか。「境界」があると気付くには、境界線があるといい。閉空間を見つけたときに、その閉じた世界の外側には何があるかを想像することが大事なのではないか。

ぼくが本当に恐れているのは、閉空間そのものではなくて、次のような状態なのかもしれない。

  • 自分が閉空間の中に閉じ込められていると、自覚できないこと
  • その閉空間にいて居心地の悪さを感じるようになったときに、飛び出す術を持たないこと

世界は、ぼくらが思っているよりも狭く、そして広い。いま見ている空間を狭いと感じるようになってきたら、それはきっと、成長できたということなのだろう。次は、その空間の外側を想像してみるとよい。想像してみることでしか、想像力は養われないのだから。


僕が立っているここはきっと誰かの願ってる場所で
誰かが立っている場所がきっと僕の望む場所で


誰かがきっと今僕にとっての夢を叶えてくれている
僕もきっと 誰かにとっての夢を叶えている


Let's party dance dance dance
Let's take our hands to hands to hands
Shut up and smile so you can see how beautiful life is
Forget about chance chance chance
What for? Enhance hance hance
You're naked is really the best


僕はなんで 立ち止まって 明日を待っていたんだろう
明日はきっと 明日をきっと 迎えにいくよ


僕はきっと今いつかの夢の上に立っているんだね
僕はきっと今誰かの夢の上に立っている


僕はもう数えきれぬほどの夢を叶えているんだね
ごめんね これからはね ずっと ずっと 一緒だから


夢番地 / 野田 洋次郎