言葉のベクトル

もし「うちの鬼嫁がさ〜」からはじまるお話を聞かされたら、多かれ少なかれ、「ちょっぴり恐い奥さんなんだな…」みたいな先入観と向き合わなければならなくなる。その実、内容はただの惚気話だったとしても、だ。

言葉にはベクトルがあって、話し手がどっちの方向にどれくらい強くイメージをつくっていきたいかで、選ばれる言葉も変わるだろう。客観的な事実のみを表現した言葉もあれば、先の「鬼嫁」のように、すでにイメージを内包してしまっている名詞もある。

ぼくは「リア充」とか「害虫」とか「貧乳」という言葉は、使うことになんだか抵抗があって、自分から積極的には選ばない傾向がある。ちょっと強いイメージを帯びすぎていて、物事の一側面を強調しすぎると感じるからだ。だいたい「乳が貧しい」ってどういう意味だよ。もし、ただ小さいってだけで「貧しい」とか言っちゃっているんだとしたら、貧しいのはお前の感性だよ、この言葉を編み出したやつは今すぐ名乗り出ろ!という感じだ。いや、でもまぁ、ぼくが積極的には活用しないというだけで、身のまわりでこれらの言葉を意識的に使っている人たちを順番に沈めていきたい気持ちは、別にない。ただし「貧乳という言葉を提唱したやつ」、テメーはダメだ。しかし、よくこんな言葉が広く普及して定着するに至りましたね。なにが起きましたし。



一方、聞き手の想像を膨らませてくれる言葉の表現というのも、ある。たとえば「海の幸」という言葉、ぼくはこれが好きだ。「シーフード」や「海産物」というのは、きわめて客観的に対象を表現しているが、「海の幸」は、もっと踏み込んで、言葉を操るぼくたち人類にとって、海の生物を食料として摂取するのはどういう意味か、なんてあたりにも触れているように思う。豊かな表現だ。誰が最初に言い出したのかはわからないけれど、よくぞ言ってくれたものだし、これを定着させるだけの土壌があった日本の文化に感謝したい。他には「花火」という日本語も、ぼくはなんとなく好きだ。

「言葉は、客観的であるべきだ」なんてことを論じるつもりはない。客観的な言葉と、ときに主観的な言葉、どちらも存在する。自分の好みに合わせて、なるべく、そのときそのときの自分の気持ちがまっすぐに伝わるように、言葉を選んでいきたい。言葉の使い方を洗練させていきたい。