国語の先生の毎日
17歳くらいのとき(たぶん)に、国語の先生の毎日って大変なんじゃないかなぁ、って思ったことがある。
たまたまお茶の間に流れていたテレビ番組とか、たまたまめくった雑誌のコラムとか、たまたまアクセスしたウェブページとか、そういうとこから「多くの人は◯◯は△△だと思っているけれど、実は□□だ」なんていう、ちょっと意外系の情報が飛び込んでくるときがある。そういうのを摂取するたびにさ、世の中に対する理解が深まったり正しい知識が身に付いたりして、身の回りで「△△でしょ〜」とか言っている子がいたときに「いや、実は□□らしいよ」って指摘するような機会がちょっと増えたりもする。
最初はさ、上手に指摘できると「誤認識を正すことができたかもしれない」「感謝されているかもしれない」って、なんとなく嬉しみがあったりするのだけれど、あまりにも指摘しなきゃいけない状況が増えてくると、だんだんと「またか」って気になってきて、億劫な気持ちになってくることもあるだろう。
そう考えたときに、国語の先生ってのは、平均的な国民よりも、その国の言葉の「正しい用法」「誤った用法」に敏感なわけだから、ふつうに日々を暮らしているだけで、「それは、そうじゃねーんだよ」って思っちゃう頻度が高いのでは、と思ったの。17歳くらいのとき(たぶん)にね。
ぼくはたまたまウェブだったりプログラミングの世界に生きているから、ウェブやプログラミングの世界のことはそこいらの中学生よりはきっとたぶんたまたま詳しくて、「Wikipedia のことを wiki と略すのは避けた方がいい」とか「Java と JavaScript はインドとインドネシアくらい違う」とかって、たまたま知っている。だから、ちょっとした用法のミスを見かけたときには、ちょっとモニョモニョするよ。とはいえ、別の分野のことになればぼくも頻繁に盛大に色々と間違って生きているだろうから、誰しもがお互い様なわけで、誤りを感情的にバカにしたりは避けたくて、可能な限り前向きに指摘するか、主観だけを述べるか、そうでなければ「何もしない」という行動を積極的に起こすようにしている。つもり。
自分にとって解像度の高い分野や領域のことは、他の人よりは気にしちゃうもんだと思う。プログラマは「専門職」って言われたりするから、専門外の人がドドーンと専門領域に飛び込んできて華麗にミスをして帰っていくってことはあまりないけれど、日本においては、日本人のほとんどが一般教養として日本語を身に付けていて、でも習熟度は人によって違って、そんな中で日本語を自分の専門としている人は、気苦労が多いんじゃないかなぁ。むしろ、視界に入ってくるミスが多すぎて、だんだんと無視できるようになってくるとか、そういう作用もあるのかな。