生産の消費

20代前半のぼくは、生産という行為に強い憧れを持っていて、とにもかくにも「生産している」という実感を得たくて、生産に勤しんでいたところがあると思う。生産を消費していたのだ。いい感じの熱気があった。

小さいながらも、いくつかの生産体験を経て、ものをつくるってのは、本当にむつかしいことだとわかってきた。魅力的なコンセプトを見つけて、間違わずに実装して、それから育てて… なんて、一連のプロセスを経て、ようやく「自分の日常の中に定着する」ようなものに辿りつけたり、つけなかったり。

先日、とある困っていることがあって、それを解決するべく、iOS 向けのアプリをひとつセットアップした。

20代前半のぼくなら、日々の中に問題を発見したことに大喜びして、自分でアプリをつくって解決してやるぞーって、駆け出していたんじゃないかなぁって、ふと思った。

今のぼくは、変にお利口さんになってしまっていて、それだったら、自分でつくるより、よくできている既存のアプリを使ったらいいじゃんって、冷静に考えてその通りの判断をしていて、ちょっとムカついてしまった。