ミソポエ

もうそろそろ自分が30歳男性であることを認めざるを得ない感じになってきたので、観念して三十路のポエムを書く。これはたとえば、20歳のころは考えもしなかったけれど、今のぼくがウァアと感じていることなどを含む。

常識や慣習

ようやっと30年だけ生きてきて、あらためて思った。「常識」とか「慣習」ってのは、自分が生きてきた期間、見てきた範囲をもとにしてしか、感じることができない。

「こういう場では、こうするものなんですよ」に対しては「へぇ」と返すくらいしかできない。起源がよくわからないことはたくさんある。でも、自分が数年に渡ってメンテナンスしているコードベースにおいては、「これは、こういった経緯で、こういう慣習になっているんですよ」と自分の言葉で説明できる。それを聞かされた人は「へぇ」と思うだけかもしれないけれど、経緯がわかれば納得はしてもらえるかもしれない。起源や経緯がわからなくて、形だけが残されたものには、「へぇ」くらいの距離感で付き合っていくのがいいのかねぇ。

40年前から定着しているものも、50年前から定着しているものも、自分にとっては「生まれたときには、すでにあった」という認識になるだろう。それは、ぼくのモノサシが30年分の長さしかないからだ。ちょっと興味を持って歴史をさかのぼってみると、自分のモノサシでは計れない長さのものについて知ることができて、おもしろい。

ユニクロ。アルファベットでは「UNIQLO」と書く。「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」としてはじまったお店の略称が「ユニクロ」だったそうな。ぼくの幼少時代には、今ほど定着していなかった。今の小学生くらいの子からしたら、もしかしたら「当たり前にある」という感覚なのかもしれないと思うけれど、わりと最近のものだ。ハロウィンに仮装パーティをやるのも、ホワイトデーにお菓子のプレゼントを贈るのも、近年になってからの慣習だ。ファイルの「保存」のアイコンが今でもフロッピーの形をしていたり、セブンイレブンがぜんぜん7時開店11時閉店じゃなかったり、いろいろだ。まあ、こういうカタカナのやつは、外来語っぽいし、最近のものっぽさがあるし、なんとなく想像はつくかね。

そうじゃないやつだと、恵方巻ってのも、実は最近になってすっかり定着したものだと思う。しっかりとした記録はないみたいだから、断言はむつかしいのだけれど、日本全国で認知されるようになったのは、ここ10年くらいのお話なんじゃないかな。Wikipediaの恵方巻のページによれば、「恵方巻の認知度は、全国平均は2002年(平成14年)時点の53%」「2006年(平成18年)には92.5%」とのことなので、バレンタインデーやホワイトデーなどと同様に、商業の波によって一気に普及させられた類のものだと思う。

30歳のぼくは、20歳の人に向かって「いやいや、25年前にこういうことがあってね〜」と偉そうに言うことができる。40歳の人は、ぼくに向かって35年前のお話を持ち出すことができるだろう。ただ、それだけだ。今、生きている地球人は、せいぜいここ100年くらいのことしか言えないはず。年上の人が自信ありげに何か言ってきたとしても、長い歴史から見れば「いや、そうでもない」ってことも、たくさんある。だから、やっぱり、よくわからないお話に対しては、「へぇ」ってくらいの距離感で付き合っていくのがいいんじゃないかなぁ。先輩がおもしろいお話をしてくれているんだったら、笑いながら聞けばいいと思う。無理にわかろうとしなくていい。

過去と未来

どうにかこうにか30年くらい生きてこれて、ちょっと前に書いたように、新しいお部屋での新しい生活がスタートして、ぼくもなんやかんやで「ここまでこれた〜」みたいな満足を覚えるに至った。他の人から見たら別にどうってことないかもしれないけれど、自分にとっては大きなことで、なにか、ずいぶんと大層な何かを掴んだのでは、という気持ちにもなる。

ところが、じゃあこれはなにかっていうと、ぼくが生まれたときにそこにあったものに他ならないのであった。父と母がふたりで大事に育てていた「日々の暮らし」ってのがあって、そこにぼくが、長男として生まれてきて、仲間に入れてもらった、と。

生まれてから家を出るまでの間ずっと、両親や家族から教わってきたことを、今度は別の人と、別の場所で、別の形で再現しようとしているのが、30歳のぼくの今、ということになるのかもしれない。目指している場所は、出発点なのかもしれないと思わされて、お釈迦さまの手の平の上のエピソードを思い出す。

常識や慣習という、過去から続くものに、あまり意味を求めてもしかたないのでは、というようなことを、前半で書いた。後半では、自分がこれから歩いていく未来は、実は過去につながっているのでは、という感覚について書いた。違うのは「客観」か「主観」か、という点だ。客観で語られる過去に、多くを求めるより、なにより自分自身の過去、そして未来と向き合っていくのが、30歳を過ぎたぼくが、やっていきたいことなのだ。