愛着の半径と、後付けのミドルネーム

ふと気になって、日本の空港の名前のリストを眺めていた。オーソドックスな名前は「地名 + 空港」なんだけれど、見てみると、そうじゃないものもけっこうある。

富山、出雲、対馬、米子、徳島なんかは、なんていうかミドルネームっぽい。

現時点で30歳男性のぼくの感覚からすると、ミドルネームっぽいやつは「かわいい」と思う。なんでそんなふうに好印象に捉えることができたのかと考えてみると、名付けられた時代にぼくが生きていたからなのではないか。たとえば「出雲縁結び空港」は、2010年に愛称化したとのこと。ぼくが生きている時代の感性で名前が付けられている、と。

さらに想像を広げてみよう。「地名」だって、もともとは愛称として呼ばれていたものがなんとなく本採用されていったんじゃないかな。たとえば「新井」なんていう土地は「新しく井戸をつくった」ときにそう呼ぶようになっていたりとか。だけれども、年月が経って、名前は由来を離れて記号化し、読み方としての音だけが伝わり、だんだんと意味なんて感じなくなってくる。新しかった井戸も、やがて古くなり、もしかしたら井戸そのものがなくなってしまっていたりして、それでも新井という地名だけは残る。後の時代に生まれてきた人が、その「アライ」という地名に愛着を感じることはむつかしいだろう。

きっと愛着が行き届く半径ってのがあって、それは空間的な距離の半径であったり、時間的な距離の半径であったりして、そのモノから遠く離れれば離れるほど、愛着を感じにくくなると考えられる。WEB+DB PRESS Vol.73に載せてもらった記事にもちょろっとだけ書いた通り、ぼくは「名前と愛着」には深いつながりがあると捉えていて、命名されたときその場所にいた、とか、命名された瞬間を共有した、とか、そういう要素が愛着をもたらすのだと思う。

そう考えてみたときに、すでに古くよりの愛着を抱えている「地名 + 空港」という名前から地名を奪わずに、後付けのミドルネームを足してキャッチーにする、というのはなかなかよい方策のように思えてきた。

読者のみんなも、身の回りに、誰かが昔に名前を決めてしまっていて愛着を感じられずにいる対象があったなら、試しにミドルネームを考えてみるというのはどうだろう。