愛とコストと解釈と

「時間を投じるのは、なんにせよ、愛だ」といった言説を、どこかで見た覚えがある。やさしい態度で抱き締めるでもなく、罵倒の言葉を浴びせたとしても、その対象のために時間を費やすのは愛である、と、そういった旨の主張だったと思う。「好き」の逆は「嫌い」ではなく「無関心」だ、といった考えにも通じるものがありそうだ。

通貨としてとらえるならば、ぼくらの生涯において、決して増やすことのできない通貨が「時間」なのだ。だからこそ、経過とともに単調減少していくそれらをあえて「投じる」ことにした、その先には、愛が向けられていると考えたのであろう。

1ヶ月に1回くらいしか更新されない、気まぐれで不定期更新な友達のブログがあって、更新されるたびに、ぼくはそっと、はてなスターをつけてしまう。たぶん世界のほとんどの人は、そのブログが更新されたことに、素敵な言葉が綴られていることに、気付いていないのだろう。毎度、ぼくがつけた☆がひとつだけ、そこには残る。

見る人が見れば、この☆のところに表示される june29 さんという人は、ずいぶんと熱心にブログの更新をチェックして、いつも更新を見逃さないように意識を持ち続けている人なのだなぁ、と、もしかしたら感じてしまうのかもしれない。その実、ぼくがフィードリーダという便利な道具を使って、ほとんどコストをかけずに更新情報をキャッチしているだけ、だったとしてもだ。

薔薇をひとつ摘むのに1分を要する世界、なんてものがあったとしよう。100万本の薔薇の花をあなたにあなたにあなたにあげるとしたら、それは100万分という時間を束ねた愛として受け止められるだろうか。もしその世界の技術が進歩して、100倍の効率で薔薇を摘むことができるようになったら、100万本の薔薇の花の価値は100分の1になるのだろうか。だけど、受け取る相手が新技術のことを知らずに、薔薇を摘むのには相当なコストがかかるはずだ、と思っていれば、そこには従来通りの愛を感じるのかもしれない。

すべては、送り手がどれだけの時間をかけたか、ではなく、受け手がどう感じるか、に委ねられているのだろうか。

「時間を投じてくれたと感じられるのが、なんにせよ、愛だ」


「龍宮へようこそ」

僕らは生まれたトキから玉手箱 開けていて 遅効性の毒がまわっている
僕らは生まれたトキから終わる事 決まっていて 言うなれば“業”というペナルティ抱いて…


龍宮 / 石月努