物語の「中心点」と「スコープ」と、そして「終わり」と。
いくつかの漫画の「おもしろさ」や「読んでいて不安になる感じ」についてお話しながら、少し整理できたこと。
前置き
物語には「中心点」がある
多くの場合、それは主人公である。
たとえば「ドラゴンボール」の「中心点」は、主人公である「孫悟空」と考えることができる。
物語には「スコープ」がある
先と同じ「ドラゴンボール」を題材にして考えると、たとえば「フリーザ編」においては、舞台としてのスコープは「ナメック星」だったりして、展開のスコープは「フリーザを倒すまで」だったりする。
物語には「終わり」がある
ドラゴンボールのフリーザ編でいえば「フリーザを倒す」が、ひとつの物語の「終わり」となる。
「終わり」と「次のはじまり」
ひとつの物語が終わったあと、次のはじまりを迎える場合がある。「フリーザ編」のあとには「人造人間編」があった。
このとき、物語の「中心点」を変えずに次をはじめる場合は「スコープ」を大きくすることを余儀なくされる。舞台を広い場所にしてみたり(例: 地球→宇宙)、さらに強い敵を登場させてみたり。これは、容易にインフレを招き、あるスコープを超えたあたりから、読者の想像が追いつかなくなり、リアリティを保つのがむつかしくなる。「素手で瓦を10枚も割れる」は、自身に肉体と比べて驚くことができるが、「一振りで山を消し去る」などと言われても、もはや想像はむつかしい。
物語のインフレを防ぐひとつの方法として「中心点を変える」がある。たとえば「ジョジョの奇妙な冒険」では、部が変わると主人公が変わり、舞台も変わる。ひとつ前の物語の主人公と、今の物語の主人公を、ある評価軸の上に置いて直接的に比較することはむつかしく、「それぞれに魅力的である」が確保されれば、「前作よりスケールが小さい」「前作より弱い」といった批判を回避することができる。
ある対象を「中心点」としたある「スコープ」の物語は、その「スコープ」を描き切った時点で「終わり」を迎えなければならない。ダラダラと続いてもおもしろくないからだ。
物語を継続させたいとき、この「中心点」と「スコープ」をどう設定するかは、インフレによって物語を破綻させないために、とても重要なことのように思える。
主人公以外の「中心点」
「ジョジョの奇妙な冒険」の作者である荒木飛呂彦先生は「何を描いてもジョジョになってしまう」といった旨の発言をしたと記録されている*1が、これは、これらの物語の「中心点」が「荒木飛呂彦」先生自身であるかもしれない、と思った。
なので、部をまたいで、そのたびに「中心点」も「スコープ」も変わるわけだけれど、読者であるぼくは「荒木飛呂彦のジョジョワールド」を楽しむことができる。インフレも、起こさない。頭打ちも、ない。