のこしたい気持ち

ぼくが以前に属していたチームに、ぼくが座っていた椅子は残っているだろうか。ぼくが以前に属していたチームのメンバーたちの中に、ぼくが届けた言葉は遺っているだろうか。

たぶん、ぼくにもきっと、本能レベルで「のこしたい」みたいな気持ちは練り込まれているんだろうなぁ、と思う。

先日、友人から久しぶりの連絡があって、「渋谷で一緒にごはんを食べたときにじゅーんさんが話してくれたことが、後押しになりました」って近況報告をしてくれて、ぼくは自分がなにを話したのかはっきりとは思い出せないくらいだったけれど、身近な人の中に自分の言葉が遺っていると知ってうれしかった。また、後輩がぼくの3年近く前のエントリにこんなふうに言及してくれていたりもして、これもやっぱり、エントリの内容と今の自分の考えは必ずしも完全一致はしないのだけれど、当時の自分の考えが誰かに伝わって、誰かの中に遺っているのを感じて、うまく表現できないような充足感を得たりもした。

どうしてもぼくは、自信がなくて、さびしいのだと思う。だからこうして、自分の存在を認めてもらえたような気分を得られるときは、ほんの少しの間でも、その安心を噛み締めていたいのかな、って。適者生存のルールの中で、ほんの少しでも「自分はちゃんと適者だったんだ」って思える瞬間があってほしいのかな、って。

ときどき、親しい人を相手に「自分が死んだあとも遺るものをつくりたい…」から始まるお話をするんだけれど、照れ臭いからたまにしか言わないんだけどね、きっとそういう気持ちがあるのだろう。

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どちらかというと、有形のものを殘すよりも、無形のものを遺したい気持ちが強いみたい。大和田グループの財力を誇示するためにちんちんみたいにでっかいビルディングをどーんと建ててやりたい気持ちはぜんぜんなくて、古墳をつくりたいみたいな気持ちもよくわからないし、そうじゃなくて、ぼくの生前の口癖を何人かがおもしろがって真似してくれていたり、とか、これは死んじゃったじゅーんさんの受け売りなんだけどって言う子がいてくれたり、とか、そういうシチュエーションがあったらうれしいだろうなぁって想像は、なんとなくある。あははっ、やっぱり自分はソフトウェアの人なんだねー。ソフトウェアっていうのは、言葉とか、文章とか、音楽とか、思想とか、模倣(コピー)のコストが極めて低いものぜんぶを含んだ広い意味でね。ほいで、2013年にソフトウェアエンジニアとして生きている現状は、自分の思想を遺すという目的に対しては、けっこう素直なアプローチかもしれない。簡単なことではないなぁってのもよく感じるんだけれど、生きている間に、ひとつくらいは、なにか、ね。

僕のいた朝と 僕のいない朝は
どっか違っててほしい 少しだけでもいいから
僕が生まれてくる前と 僕が消えたあとと
なんか違っててほしい 世界は違っててほしい


バグッバイ / 野田 洋次郎