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「ふつう」あるいは「しぜん」であること

数日前に自分の口から出ていった言葉たちを呼び戻しながら、感覚を整理したい。

ここ数年はめっきり、「しぜん」であることを重視するようになった。ティーンエイジャーの頃なんかは、人よりちょっと目立とうとして「ふつうとはちがうことをやろう」という時期もあって、意図的に逆を選ぶ、みたいな行動指針もあった。その頃から「ふつう、とは?」「ふつうじゃない、とは?」ってよく考えていたと思う。中学校2年生のときとか、ね。健全に患っていたように思う。

「ふつう」ってのは、おそらく相対的なものだ。ぼくと似た環境にいる人たち100人の中にぼくを放り込んだら、ぼくの思想や言動は「ふつう」ということになるのかもしれない。一方で、ぼくとはぜんぜん異なる環境にいる人たち100人の中にぼくを放り込んだら、「ふつうじゃない」ということになるのかもしれない。「ふつう」というのは、それくらい脆くて、希薄なものだと最近は思う。なにかを預けるには、ずいぶんと心細い相手なんだ。


一方で、「しぜん」な状態というのがある。「ふつう」が「他と比べてふつうかどうか」という相対的なもの、「しぜん」は「自分(たち)にとってしぜんかどうか」という絶対的なもの、と試しに考えてみよう。

たとえば、とあるプログラマが作業を効率化するために、自分の愛機をがっつりカスタマイズしたとしよう。これについて「ふつうなことかどうかを論じる」のはすごくむつかしくて、なぜかっていうと、文脈が変われば結果も変わってしまうからだ。一方で、もうちょっと抽象化して「頻発する作業を効率よくこなせるようにする」という発想と行動はいたって「しぜん」なことで、よく料理をするお母さんはキッチンのモノの配置を洗練させていくだろうし、ぼくの身近にいたファイナンシャル方面の先輩はコンピュータのことは詳しくなかったけれど Excel のキーボードショートカットを覚えていて操作がめちゃくちゃに速かった。お母さんの行動も、先輩の行動も、とても「しぜん」なことだと思う。なるほどね、と納得できる。

明治神宮

その人のコンテキストにおいて「しぜん」であるということ。これが大事だとぼくは考える。それが、他の人のコンテキストから見て「ふつう」かどうか。こっちはまた別のお話で、「しぜんかどうか」に比べると、「ふつうかどうか」は、あまり重要じゃないように感じられる。

だからぼくは、自分のコンテキスト、あるいは自分たちのコンテキストとしっかり向き合って、その上で「しぜん」かどうかをよく考えるようにしている。もうちょっというと、よく言われる「ふつう」という言葉を「しぜん」という言葉に置き換えながらお話を解釈している。

自分、あるいは自分たちがハピネスを感じられる時間を過ごすために、これってふつうかな?おかしいかな?と漠然と不安になるよりも、他でもない自分・自分たちと向き合って「しぜんにできているかな」と問い続けるようにしたい。今のところ、そんな気持ち。

これはまだ整理できていないんだけど、「しぜんにふつうじゃない」状態にある人に対して「かっこいい」と感じることが多い気がする。「ふしぜんにふつうじゃない」状態の人は、無理してんのかなあと心配になる感じ。ぼくとはちがう環境に身を置いていて、その環境において「しぜん」な方向にグイ〜と進化している人が、ぼくから見て「ふつうじゃない」ことになっていると、突き抜けていてかっこいいなぁなんて思う。