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命名キカイ

2013年の日本を生きる人が、なにか身のまわりの対象に「名前をつける」機会って、どれくらいの頻度で訪れるだろうかって考えた。

対象の大小を問わずに言えば、プログラマってのは異常なほどに命名を強いられる人種だと思う。コードに変数が必要になるたびに命名を行う。イラストレータを操作するデザイナさまも、レイヤーごとに名前を付けていて大変そうな印象がある。あと、ぼくらが日常的に使用しているコンピュータのファイルシステムは名前に強く縛られる設計なので、ファイルやディレクトリを使おうと思ったら、いきなり命名を求められるから、命名が頻発するだろう。

一方で、山奥で農耕や狩猟をしながら暮らしていたら、あんまり命名の機会ってないのかも?って想像した。実際のところはどうなのか知りたい。

もしかしたら、プログラマってのは「命名」器官が発達しているのかもしれない。コードレビューの習慣がある人は、なおさらだ。ぼくは日々の中でプログラマと接する機会が多くて、彼ら彼女らの命名には心地良さを感じることが多い。メールの Subject ひとつをとってみても、内容に合った適切なものが設定されていると感じる。

でもぼくらは、目の前の人と会話するときに「じゃあ、今から話すことに、まずは名前を付けましょう」なんて言わなくて、こうも名前に縛られるデジタル空間は、人間の営みとしてとても不自然なのかもしれない。山奥にいる人の方が人間として自然な姿なのかもしれない。

Twitter や Tumblr が広く認知されるようになったころ、それらは「マイクロブログ」なんて呼ばれたりもして、仰々しさが軽減した。名前やタイトルがそこまで重要視されていなくて、アナログ空間の日常会話に近付いたと思う。

ちょっと整理できてきた。「命名」は、2種類に分類できるのかもしれない。

ひとつめは「あとから参照するため」の命名。ファイル名とか。メールの Subject とか。雑誌の名前とか。駅の名前とか。きちんと設計された名前があると、参照が簡易になって便利だ。きちんと設計された名前っていうのは、たとえば「新宿」の西に位置する場所に「西新宿」という名前をつけたり、そういうこと。

ふたつめは「新しい概念を表すため」の命名。これも、あとから参照する用途はもちろんあるのだけれど、ちょっと種類が違うように思う。これまでの語彙では表現し切れないものを指すために新しく名前をつける。最近のだと「スマートフォン」とかが例になるのかな。

ひとつめの方は、きっとある程度は機械的にこなしてよくて、こういう場合はこういうふうに命名しておくとよい、っていうパターンが見つかってきたりして、命名規則として整理されたりもする。ふたつめの方は、機械的にしすぎるとだめで、自分が新しく生み出したプロダクトにかわいい名前をつけようと思ったら、ちょっと工夫して創造的に発想してキャッチーな名前を探したりする。

「◯◯に名前をつける権利」みたいなの、たまにあって、なんかそれを見たときに「命名権ってそんなに特別なもの?」って思ったり、なんでもいいんだけどとりあえず付けておきましたって感じのメールの Subject を見てモヤッとしたりして、なんで自分は命名に対してそんなにムキになっているんだろうって考えたところからこのエントリははじまった。命名大事おじさん。命名マシーン。命名機械。