コントローラブル・コンテンツ
たとえば、電卓を使っていて、計算結果が表示されるところに、なんか急に広告とか出てきたら驚くかもしれない。特に、今まさに計算に使おうと思っているときに「広告スキップまであと10秒」とか言われたら不便を感じると思う。
ぼくが MacBook Pro や iPhone に触れているときも、もしかしたら電卓に触れているときの感覚に近いのかもしれない。
Facebook、リストを中心に使うようにしたら、ニュースフィードを見なくなって、そしたら、Like している Page からの情報を目にする機会がなくなったから、単純に友人たちの近況が流れてくる画面になった。「◯◯を見に行こう」って期待するものと、実際に見えてくるものの間のギャップがなくなり、自分の意思でコントロールできている感覚を持つようになった。心地良い。
じゃあ、なんでもかんでもコントロールしたいのかっていうと、そういうわけでもなくて。電車内の広告とか、街の大型看板とか、ウィンドウショッピングしているときにたまたま目に飛び込んでくるものとか、そういうものたちは、ぼくの意思を外れたところからぼくに刺激をもたらしてくれるので、それはそれですごく好きだ。
コントロールしたいと思っている対象と、そうじゃない対象があって、期待から外れるとストレスを覚えるのだろう。
どうやらぼくは、ぼくの所持品の上に表示されるものについては、コントロールしたいと感じる傾向が強いらしい。「自分のもの」って思うんだろうね、きっと。
映画館のスクリーンに表示される広告は気にならない、自分の MacBook Pro で YouTube の動画を再生するときに表示される広告は気になる。けっこう感情的な判断になっている気がする。
追記
なんかまだ整理が足りないっぽい、上に書いてみたことも疑わしい…