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同じであることを求めるよりも、違いを愛せるように

「友チョコ疲れ」という言葉を見かけた。見かけて、いろんなことを思った。

対称性のないものに同調圧力をかけると、途端に破綻するんじゃないかなあ。

小さい村で暮らしていたり、小中学生の人であったりすれば、まわりの人たちと「友人知人の数」がそんなに大きく違わないかもしれない。だけれども、たとえば「東京在住の20代後半の人」となると、友人知人の数なんて、桁が違うくらいに差が出る。そこには差があるだけで、良いも悪いもない。他にも、通勤時間だったり、生活時間帯であったり、休日の過ごし方だったり、スマートフォンにインストールしているアプリだったり、違いなんていくらでもある。

そういった差を持った人たちに「同じこと」を求めても、あんまりいいことがないと思う。友人知人が多い人ほど「友チョコ」は大変になりそう。お仕事にかける時間を多めに確保している人ほど「友チョコ」は大変になりそう。甘いものが苦手な人ほど「友チョコ」は大変になりそう。人によって「友チョコ」をどのくらい重く感じるかは異なる。そんな中で「わたしはプレゼントしたのに、相手はくれなかった」みたいになっても、しょうがないと思う。北海道に住んでいる人が沖縄に住んでいる人に向かって「わたしはこんなに厚着しているのに!」って言ってもしょうがないのと同じだと思う。

ぼく、Path の Friends が150人に達してしまっていて、誰かひとりを新しく登録するためには、誰かひとりを追放しなければならない。そういう状況だ。一側面だけを切り取られたら「ひどい男」にしかならない状況だ。こういった状況に想像力を働かせてくれる人だけが、この状況を咎めないだろう。

相手に「自分と同じであること」を求めるのは、ある意味で、不幸のはじまりだ。途中までは「同じだ〜」と思えて喜べたとしても、差異を見つけた瞬間に悲しみが訪れてしまう。それよりは、違いを愛せるようになりたい。違いを見つけるたびに「こんな違いもあったね!」と喜べた方がハッピーだ。違いを思い描くことのできる想像力を持っていたい。

未来に向かって幸せが伸びていくような価値観が好みだ。