フィードバックとピリオド

明示的なものも暗示的なものも含めて、ぼくらの人生には「ピリオド」が存在すると思う。ある時点から、別のある時点までの、なんらかの意味をもった期間を、ここでは「ピリオド」と呼ぼう。

新しいピリオドがはじまるとき、以前のピリオドで得たフィードバックを意識することがあるだろう。「前回はこういう失敗をしたから、次はうまくやりたいぞ」と思ったりするやつだ。

ぼくが日々の中で取り組んでいる「ものづくり」なんてものを例にとってみても、たとえば「1週間」や「1つのリリース」を明治的なピリオドとして過ごし、そこで得たものを次のピリオドに活かす。

今回、この文章を書こうと思ったのは、自分の人生の中で「大きなピリオドがいくつかあった」と気付いたからだ。というわけで、ここからが本題。

転校生の自分 / もう転校しない自分

幼少期のぼくは極度のヒトミシラーで、転校するたびに、転校先の学校でひどいストレスを感じてしまうし、せっかく話しかけてきてくれる相手にうまく言葉を返せないし、そんな自分が本当にイヤだった。

中学校を卒業して高専に入るときに、入寮しようと決めた。このときに、ぼくの「転校生の自分」というピリオドが終わったのだ。「転校生の自分」のピリオドで得たフィードバックをもとに、次に訪れる「もう転校しない自分」のピリオドを華やかなスタートで飾るべく、心の準備を進めた。

そうして「もう転校しない自分」のピリオドが開幕したとき、ヒトミシラーだった自分は過去のものになった。それからというもの、初対面の人を相手に異常な緊張を感じてしまうことがなくなった。

答えはひとつだけ / 答えはひとつじゃない

これまた幼少期のお話。ぼくは「親の言うことは絶対だ」という感覚を強く持っていたので、そこから外れることが怖かった。親に怒られるのはイヤだったし、親にがっかりされるのもイヤだった。親が提示する「答え」みたいなものがあって、なおかつそれが「絶対」だとも感じていたと思う。これを「答えはひとつだけ」ピリオドと呼ぼう。

このピリオドが終わりを迎えたのは、18歳くらいのとき。親父が「実は今、すごく悩んでいる」と、家族に関する悩みを打ち明けてくれたときだ。この体験を経て、ここでのフィードバックを得て、ぼくの人生観は大きく変わった。大人になるにつれて「どこかに存在する、ひとつの答えに近付いていく」と思っていたものが、ぜんぜんそんなことはないと思うようになった。自分にとって、ある種の「絶対の信頼」だった親が、いい意味でそうではないと気が付いてから、自分の外部に答えを求めることがどんどんなくなっていった。今では、自分は自分のやりたいようにやろうと思っている。

もうちょっとだけ言うと、先に書いた「親に怒られるのはイヤだった」は、今では「親を怒らせちゃうのはイヤだ」に変わっている。余計な心労を掛けたくない、という意味合いが強い。

雑感

自分のこれまでの人生の中になんらかの「ピリオド」を見つけてみると、けっこう楽しかった。その手前のピリオドからの「反動」みたいなのがあって、大きな反動は人生観すら変えることがあるのだろう。