スーパーリセットという取り組みと、物事の必要性について

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スーパーリセット | ペパボ社長ブログ

ケンタロさんのエントリにある通り、社で「スーパーリセット」なる取り組みがあり、2016年7月を迎えたタイミングでいろいろが実施された。毎日の朝会・夕会、それから毎週月曜日の朝礼、週次の定例ミーティング等々がいったん廃止され、社で活用しているコミュニケーションツールも業務上最低限のところまで削ぎ落とされた。社の Slack のチャンネル数は、たぶん7分の1くらいに減った。

「ちょっと整理してみましょう」という呼びかけではなくて「スーパーリセットです!」と掲げられたことの意味を、ぼくは考えていた。

たしかにこれは廃止しちゃってよさそうね、というものは、そのままお見送りして廃止になったけれど、スーパーリセットされた直後に「これは必要なので再開します」と元に戻されたものも、けっこうある。これを見ると、スーパーリセットとは「必要なものと、そうでないものを仕分ける」ことであったのだ、と捉えることができそうだ。だけど、それだけではないだろう。

「必要か?」という問い

ぼくは「必要」という言葉と向き合うときは慎重になるところがある。もしかしたら「必要」という言葉に苦手意識があるかもしれない。「必要か?」という問いはなんだか決定的で、回答は「はい or いいえ」の二択を期待されているように感じてしまう。そしてたぶん、ぼくの人生において必要なこと、つまりそれがないと死んでしまうというものは本当に一握りになってしまうけれど、ぼくの人生において大事なものっていうのは、それよりももっとたくさんあったりするのだ。

だから今回のスーパーリセットという取り組みについて考えるときも、各種の物事について「必要か?」というよりは、「どうして必要だと感じていたか?」と Why を問う形で向き合いたいと願っていた。たとえば、どこかのチームが「リセットされちゃったけれど、朝会はやっぱり必要なので再開します」「そうですね、再開しましょう」となるのはよいとして、「では、なぜチームメンバーたちは朝会を必要と感じるのか」を深堀りして考えることで、より深く自分たちの日々の活動を理解できるようになるだろう。より鮮明に「この成分が大事」というものを捉えることができれば、それを朝会以外の方法で成し得ることもできるのだから。

必要ではないかもしれないけれど、大事なこと

今回、社の Slack から多数のチャンネルが消えていった。その中には、社内の同好者たちが集う「部活」っぽいチャンネルも含まれていた。気の合う社員・話題の合う社員たちが集まって話すチャンネルは業務上、必要であるか? …と問われれば、ぼくは「いいえ」と答えるだろう。だけれども、決してそれらが無駄であったとは思わない。同様に「業務上、有益であったか?」と問われたなら、ぼくは迷わず「はい」と答えられる。

中途入社で合流した身として、最初の1〜2ヶ月ほどは不安も多かったものだ。スタッフは300人ほどいても、業務上直接の接点がある人は、10人前後だっただろう。残りの人たちともなんとか接点を持てないものかと考えたとき、Slack の各種チャンネルは非常に心強いものだった。そこで初めてお話することができた、同い年の人たちや、共通の趣味を持つ人たちとは、のちに業務で接することになったときに、実にスムーズにやりとりできたものだ。加えて、社内のいろんなところに気を許せる人たちがいると、ここには自分の居場所があるという心理的な安全を感じることもできた。

ぼくのようなひとりのスタッフが日々を健康に過ごして健全な気持ちで業務を遂行していくに当たって、必要ではないかもしれないけれど大事なことというのは、たくさんあると思っている。今回のスーパーリセットのような取り組みを通じて、各スタッフが大事なことに気付き、自覚的にそれらを守って育てていけるようになると、うちの会社はもっともっと組織として強くなっていけるんじゃないかなあ。

というわけで、ぼくが「こういうのは大事」と考えているものについては、スーパーリセットで吹き飛んでしまったりもしたけれど、きちんと理由を自覚した上でリビルドしていったりしたいと思っています。がんばるぞ〜。

ちょっとメタな視点から

スーパーリセット、ぼくは非常にポジティブに受け止めた。変化を受け入れられる組織は強いと思う。逆を言えば、変化できなくなった組織は緩やかに死んでいくものだと思っている。うちの会社は、今回の取り組みの他にも、節目節目で大きな変革を勇気をもって邁進していて、その実施内容に対しては賛否があるかもしれないけれど、とにかく変化から逃げないところは大好きだ。

そういや、こういう全社的な取り組みについてなにか感じたとき、公式にフィードバックできる窓口みたいなのがあるといいんかなあ。スタッフみんなそれぞれ思っていることはありそうで、ぼくの耳に入ってきているものもあるのだけれど、意志決定者にうまくフィードバックされていなかったらもったいないな〜と思った次第。

まとめ

社のスーパーリセットという取り組みについて、思っていることなどを書いた。これは別になにかに向かって「やめろ!」と言っているわけではないと思うので、スーパーリセット後のまっさらな大地に新しい種をどんどん植えていきたい気持ち。むしろ、こうしてリセットされるタイミングがあることで、スタッフ各位が気軽にいろいろを試せるようになっていけばいいと思う。そうして、スタッフひとりひとりが自分の過ごす日々について自覚的になり、自身の日々を自身でデザインしながらいきいきと働いていけるとよさそう。

立ち止まって考えるきっかけをくれた今回の取り組みには感謝している。2016年下半期もますますがんばっていきましょう。

「Rubyのしくみ」読書会を終えて

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ぼくが今の会社に入ったときには、毎週火曜日のランチタイムに Ruby 関連の洋書を読む読書会がすでにあって。入社直後に誘ってもらって、そのときの課題図書だった Metaprogramming Ruby 2 をみんなでいっしょうけんめい読んだ。たまにぜんぜん意味を取れない英文と対峙してヒィヒィ言ったりしながらも読んだ。

Metaprogramming Ruby 2 を読み終わったのが2015年末〜2016年初頭くらいで、その次に「なにを読もっか?」ってなって Rubyのしくみ Ruby Under a Microscope を選んだ。洋書じゃないけどいいか、ってことで。

2016年6月21日、約5ヶ月かけてこの本を読み終わった。

「メタプロ2」も「Ruby のしくみ」も、ふだん「ただ使っているだけ」になりがちな Ruby の内面を見せてくれておもしろい。小学生時代にスーパーファミコンのコントローラを分解して遊んだときの興奮を思い出させてくれるような気がする。しかも Ruby の場合、簡単な実験スクリプトを書いて内部実装を垣間見ることができたりしておもしろい。もっといえば、もちろん実装そのものをすぐに見ることができるのだ。

別の効能として、イベントでまつもとさんやささださんにお会いしたときに「ありがとうございます」って言いたくなるのもうれしい。ぼくは Ruby がなかったら今頃どこにいて誰とどんなお仕事をしていたかけっこうわからんな〜と思っていて、こうして内部設計を知ることで作者の人たちに心理的に近付けたような気にもなれる。

次は Programming Phoenix を読み始めた。社内には Elixir 大好きっ子の @Joe_noh くんがいるので、わからないところは都度で教えてもらったりしながら読み進めている。今後も楽しそう。